永代供養墓の歴史 (奈良の永代供養は極楽寺)

永代にわたる供養をお寺にお願いする、永代経(永代読経)というものは古くからありますが、しかしこれは、あくまでも既に亡くなった故人や先祖を供養するもので、またお墓という形における変化をもたらすものではありませんでした。現在の永代供養墓は、生前に本人が申込めるものとしての、従来のものとは異なる新しいお墓の形態だといえます。

 

また、行き倒れ人や身寄りのない人が死亡した場合、その管轄の行政によって荼毘に付され、遺骨をお寺の納骨堂などに預けるということも古くから行われていますが、それは単にお骨を収蔵するというものであって、今日のような永代供養墓とは随分と意味合いもシステムも違うものでした。

 

永代供養墓が新しいお墓の形態として注目され始めたのは、今から十年ほど前のことで、寺院において、あるいは寺院を経営主体とする霊園において、先駆的な永代供養墓が開設されました。それから現在までの二十世紀最後の十年間に、永代供養墓は急速に浸透していきました。

 

永代供養墓の大半は、広い納骨室を共同で使用する合葬式のもので、そうした墓所は公営でも神社でも開設されてきましたが、その当初から主に寺院によって開設されてきたため、永代供養墓という名称が定着してきました。合葬式墓所、合祀墓、永代納骨堂、永代祭祀塔、俱会一処墓、生前個人墓など、様々な名称で呼ばれることもありますが、現在も永代供養墓を開設しているのは、そのほとんどが寺院です。ここでは永代供養墓という名称のもとに、同様の形式を持つものを含めています。

 

永代供養墓が登場した当初は、かつて養老院に入ることに多くの人が抵抗感を持ったように、永代供養墓というものについての認識が浅く、そこに納骨することに対して随分抵抗があったようです。初期の永代供養墓には、単にお骨を収蔵するだけの無縁塔と区別が付かないもの、見た目も粗末で死後を安心して託すには不安を感じるものもありました。管理・供養のシステムにしてもあまり確立されておらず、申込者が抵抗や不安を感じるのも無理はないという状況がありました。

 

しかし、永代供養墓が注目されるにつれ、それを望む層は確実に増え、またそうした人々からの要望にもよって、年々質の高い形式のものが建てられるようになってきました。一方、內容においても、供養期間や供養方法、遺骨の納骨方法など、使用者が納得できるシステムが徐々に確立されてきました。永代供養墓が社会現象として認知されると同時に、ハード面、ソフト面が共に充実していったといえます。