永代供養墓の先駆者 (奈良の永代供養は極楽寺)

永代供養墓が社会的に大きく注目された端緒は、昭和六十年、比叡山延暦寺大霊園に「久遠墓」が登場した時です。個別の墓石を建立する形式は、従来からのお墓を踏襲したものといえますが、総計一八三〇基が建立できる永代供養の専用墓域を開設し、しかも天台宗総本山の比叡山延暦寺が管理する霊園ということで、大きな関心を呼びました。

 

永代供養墓の本格的な胎動が起こったのは、平成元年、新潟においてでした。妙光寺の「安穏廟」です。円形古墳をイメージさせる陵の壁面に個別の区画を設けた集合式墓所で、一基あたり一〇八区画、全体で四基四三二区画の計画となっています。現在四基目の募集に入っていますが、既に約半数に予約申込みがあるそうです。

 

この安穏廟の最も大きな特徴といえば、安穏会という会員制度を導入したことにあります。寺院が経営するお墓でありながら宗派を問わず門戸を広げ、しかも会費を基金にして永代供養墓を運営していくという明確なシステムを設けています。この安穏廟が投げ掛けたのは、家を単位に承継されることを前提とした従来のお墓と、それに支えられてきた檀家制度の見直しを図るという、大きな視野を持つ問題でした。

 

続いて、平成二年、京都の常寂光寺にも「志縁廟」が開設されました。ここも同じく、家族や血縁ではなく、境遇や考え方を同じくする人がお互いに支え合うという共同のお墓です。この志縁廟の建立を推進したのは、昭和五十三年に設立された女の碑の会という団体で、独身女性による平和運動や人権保護の活動など、世界的視野に立った問題に取り組んでいます。志縁廟はそうした同じ志で結ばれた方々のお墓として建立されました。

 

時をほぼ同じくして、東京にも会員制の共同墓地「もやいの碑」が開設されました。すがも平和霊苑内にあるこの碑を運営するのはもやいの会という組織で、寺院や霊園から独立した事務局が設置されています。ここでは、遺骨の一部を専用骨壺で安置し、残りを骨袋に入れて合祀するという分骨方式が採られ、入会金・年会費は別途ながら、十万円という安価な料金が多くの支持を集めました。また、同霊園では葬儀の生前契約の事業も行われており、身寄りのない方がより安心して死後を託せるシステムを推進しています。

 

これらの先駆的な永代供養墓は、いずれも大きな注目を浴び、現代のお墓の問題に社会的な焦点を当てるきっかけとなってくれました。これらの趣旨、形式、内容などは、多くの寺院や霊園、地方自治体などにも多大な影響を与えています。